鴨周 - Aduck’s blog

日本の事、インドネシアの事思いつくままに

史実を表す言葉と差別的な言葉

子供の頃よくわからないまま、同和教育と言うのを受けた。

私の住んでいた地区は、校区内にかつての同和地区が含まれていたため、先生たちは特に熱心に対応していた記憶がある。

身分制度によって生み出された被差別部落の問題は、2度と同じ過ちを起こさないために、過去を隠蔽せず将来にわたって語り継がれなければならない」と教わった。

明治近代化以前に、士農工商の下に、穢多・非人として差別をうけた人たちがおりその人たちの部落は教育水準が低く両親が十分な学習サポートをできないので、課外授業などを行っていると聞いた記憶がある。

現在、穢多・非人と言う表現は身分、階級を表す言葉として差別用語とみなされている。当然、漢字変換ではこの漢字は出てきません。Wikipediaでは史実を表すため漢字表記も認めているようですが、他のサイトでは漢字表記でない物多いようです。

 

ここで感じる矛盾は、過去を「隠蔽せずに語り継がれる」はずの言葉が安易に使えなくなっている現実です。もしこのブログが何十万人と言う閲覧者が居れば、おいそれと使えない言葉ですしこの話題も避けたい話題かもしれません。幸運にほぼ読者の居ない自分勝手に書いているブログなので評価も批判もありません(笑)。

 

ここで言いたいのは、差別を助長するような言葉を言い換えようとするポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)が差別をなくすために語り継がないといけない表現をも制限してしまう可能性が有る事です。

 

人権や差別、最近では環境、LGBTなどのなんでもユニバーサルなこれらの言葉を並べると反論できない風潮が生まれているような気がします。我々は、このような言葉を利用し人の行動を制限しようと考える輩もいると言う事を意識して自分の思考で物事を考える必要があると思います。