鴨周 - Aduck’s blog

日本の事、インドネシアの事思いつくままに

自主規制による尊宅社会と過剰自主規制

日本人は民度が優れているので、要請だけでも行動の制限ができる。

実は、私もそう信じている。いや、そうであってほしい。コロナ禍後に、中国人などから「さすが日本は民度が高いので他国とは違う対処で乗り越えた」と言わせたい。

その気持ちはありながら、懸念するべき事を考えてみた。

『長』を司る者は責任を伴っているはずだ。人を導き、まとめ上げ、集団としての意思をけん引する。判断を間違えれば責任を負わなければならない。

しかし、今回の緊急事態宣言のように要請とした場合、罰則のしきい値を決める必要がなくなる。例えば、密集の条件は10人と定義されている。これが罰則を持った強制であれば、10人以上は罰金か〇〇などとうたわなければならない。しかし要請ではその必要はない。だから、その10人と言う設定に『長』たる者が責任をとる必要がないという事が言える。君たちの解釈や尊宅に任せると言っているようなものだ。

明確な基準がない現在、勝手にルールが解釈され醸成していく可能性がある。この程度でいいと思って対策している人に対し、それは不十分だと文句を言われたり、ネットに曝されたりすると、それ以上の対策を皆がする事になる。自主規制がどんどんエスカレートしていき、エレベータ内は息を止めていなければならないルールができてしまうかもしない。ボタンから感染するので、エレベータに乗る前に消毒、降りるときに消毒、手すりを握ると消毒どんどんエスカレートするかもしれない。

閉めなくて良い店が、うちは民度が高いからと店を閉めたことをアピールして絶賛されたとする。それを見習わないと社会からたたかれる状態になった他の店も続々閉めるとなる。必要なものが手に入らない上に経済も崩壊を加速させる可能性がある。

 

民度に頼るもの良いが、明確に基準を決めて守るべき事を守る民度の高さを示してた方が良いのではないだろうか。